生成AIと絵描きに関する、久々に偉そうに語ってるコラム的なあれ。コロナで社会変化があったときも何かしら記録しておけばよかったな‥ と思っていたので、AI時代幕開けの今がそうかと思って。

人って乗り物に乗れば時速50kmやら200kmやらで高速移動できるのに、未だに100メートルを何秒でとか1000メートルを何分でとかいうことをやっている。
重いものを持ち上げるのであれ、泳ぐのであれ、高いところに登るであれ、すでに実用的な機械がありながらも取って代わられることなく追い求めることが認められ、ましてや教育の一環にすらなったりしている。

AIが流行るなら絵描き要らんよね〜がまかり通るなら、乗り物があるからスポーツなんて大きく取り上げる必要ないよねって動きも起こるはずなのに、 各地の大会やオリンピックに出ようとするアスリートはたくさんいるし、それらを大切にしようとする施設やサポーターといった二次的な関わりをする人たちもたくさんいる。
機械に能力が置き換えられるようになっても、置き換え前の能力を保持しようとすることは決して無駄ではない。

「人がやるから面白い」は今もずっと愛される

スポーツの面白さの核でありどの種目にも共通していることは、『超人的な動きを実際に目の当たりにできること』だと思う。
ファンタジーみたいなアクロバティックな動きをする、銃や弓や棒を的確に振るう、会話もしていないのに連携がうまくいく……日常でこのくらい動けたらどんなに良いだろうかと感嘆するような、そんな感動。

でも、別に出来なくても困らないと思うことはある。困らないならここまで熱狂したりもしない。
相手チームとか世界記録という『敵』めいたものがいたとしても、熱狂できないうちはフィクションに登場する敵のように虚ろで、仮初の恐怖をもたらすだけである。
なぜそこに熱狂する人々がいるかというと、それは『人間が生きるために獲得できる能力の最大値を証明してくれるから』だと思う。
「人間も頑張ればこのくらいのパワーや速度が出せるのだ」という感動は、人類が頭脳だけの生物ではないことを証明し、強い生き物であると鼓舞することになるからだ。

人間はずっと野生の生き物である

人間はどこかしらで「いざ自分たちが道具を失ったり知恵が役に立たない大自然に放り出されたら他の動物同様に生きていけるのか」にうっすら怯え続けている。
”無人島にひとつだけ持っていくなら何にするか”という質問が子供の頃にどこからともなく投げかけられるのも、まさしくそれは無意識下で怯えているものが他愛ない世間話として姿を変えて現れている証左のように思う。
日本だと災害でいきなりサバイバルを強いられるケースは起こりうるわけで、いまや防災意識という前向きな言葉にまとめられているが、その根源は喪失あるいは自分の肉体がもつ限度に対する恐怖である。

でも、その「もし素の力で生きることを命じられたらどうしよう」という恐怖はゾワゾワとした感覚として直接あらわれることはない。
「自分たちにとてつもない身体能力があれば生きていけるはず」からの「退廃しても生きていられそうなパワーを持っている人やそれを証明する競技に価値を見出し、保存しようとする」という行動に表現されることになる。
怯えを怯えとしていても脳を傷つけるストレスになるだけだし、想像だけして行動しないでいてもいずれ餓死するから、動く意欲や生産性が生まれるように恐怖を転々とひっくり返す機構がついている。

統計的なものがない無根拠なものだけど、トラウマ体験が少なからずある身としては「Aが怖い」ではなく「Bと関わる環境にいれば、Aに一生触れずに済むかもしれない」からの「Bについて考えるのが楽しい、すらすら頭に入ってくる」「CやDにも興味が湧いてきた」という反応が起こることを経験している。
恐怖というのは意外と「それ以外」に対して作用しようとするものだ。

野性的な死への恐怖はそのままスポーツへの意欲なんかより災害対策のための行動に移せばいいのでは…となるが、個人で防災ができるようになったのはバッテリー製品や備蓄食が発展した現代だからできるのであって、それらがなかったすべての時代では「俊敏で力強い肉体を手に入れること」が何よりの防災であったのではないかと思う。


話を絵描きとAIとアスリートの話に戻すが、
人間の肉体的な能力が機械に置き換えられたにもかかわらずアスリートが有難がられて存続できるならば、ものを写真のように描き写したりできる絵描きも『人間も頑張れば機械同等の精密さを獲得することができる』として人々を鼓舞する存在になれるはずなのである。

ただ、絵を描く人がこれからアスリート同様の扱いを受けるのかというと、あんまりそうとは思えない。
なんでかというとスポーツの場合は生物として生きるために必要となる力がそのまま競技になっているのに対して、画を描き出す力は生物が生きるのに直接には必要がないから。
高次すぎて低次元の段階じゃ役に立たない。100メートルを豪速で駆け抜ける力があれば土石流やクマから逃げられるかもしれないが、絵を描く力にそんな実用性はない。

これじゃ絵描き擁護になってなくね?って感じなんですけど、
スポーツに限らずダンスやクラフトや音楽シーン等々をみても、『頑張ればこのくらい出来るようになる』という肉体の証明であることと、それが動きの素早さや精巧さという専門知識がなくてもなんとなく凄さが測れる尺度がセットで含まれていれば、たとえ機械が蔓延っていても個たる人として尊重されるだろう、ということ。

絵でいえば、カメラ並みにデッサン力があったりロボット並みに点描やカケアミを描くのが速かったり線をブレなく描けたりみたいなところは、誰が見ても巧拙が測れる技能であると思う。
それで、そこらへんがズバ抜けているとそのうちスポットライトが当たるんじゃねえかなと何となく思っているわけです。
創作絵やるときにも持っていて損はない能力だと思うし。

「AIがいくら普及しようとも自分たちは手で描く楽しさを大事にすればいい、そういう人々とだけ関わればいいだけだ」と隔絶させて我を保つことは簡単ではあるけれど、それは今はAIとの遭遇がネット上でだけ見受けられる量と頻度だからできることであり、
外に出れば何かしら目にする広告、家のポストに投げ込まれるチラシ、AIが生成したものをネタにした番組、病院においてあるパンフレットとか、実生活で触れるものすべてがAI生成物になったときに果たして正気を保てるか?というところがあります。
AIが流行って絵の仕事がーとかパクリがーとかの定量的なものよりも、周囲の価値観のひずみに挟まれて心がすり潰されることのほうが、絵仕事しない趣味絵描きにも及ぶ脅威であると思う。
そうなったときに何が正気を保つための強みになるのだろうかと考えたら、アスリート的なところなら機械に奪われることなく大事にできて継続の支えになってくれるよね、っていう話でした。


あとは個人的な話

最近はそういう考えもあってか描く能力としての凄さや強みが直感で推し量ってもらえるようにと写実寄りなテイストを続けているフシがあります。
ポップな絵柄だと個人の好みや時代性というブレまくりな尺度で見られちゃうけど、写実テイストにすれば普段見てる世界そのものが尺度なので誰が見ても上手いかどうか測りやすいよね、っていう。(文字にするとなんかみみっちいな……)

アナログペン画は逆に写真感そっちのけで漫画っぽいデフォルメの効かせ方や画材の使い方を試行錯誤して遊んでいるので、本来の"お絵描き"然としたものはアナログ絵で感じることが多くなっているかもしれない。
探索ゲーのようにふらふら遊べるのがアナログ、スコアタみたく一点集中していくのがデジタル、という感じ。

https://www.pixiv.net/en/artworks/26204932 ついでに最近pixivで見かけたデジタル模写メイキングすごすぎたのでシェヤしておきます。
いやすごい…すごいの3音節以外の感想が出てこない。
専門知識がなくても推し量れる凄さってこのことですよ。