いきなりこんなものを書くなんてどうしちゃったんだ
せっかく個人サイトを設けたのにいまいち根が張らないというか定住しきれていない時期があった。普段使っていたSNSのほうがよっぽど何もかも簡潔で、気がつけば何かを描いたりした時に真っ先に更新しに行くのはサイトではなくSNSだった、なんてことがままあった。
それでも自分のぽつりと考えたことや誰かへのコメント、そこについた評価さえも全世界へ公開されてしまうSNSに「ちょっとお前はオープンすぎやしないか」と思うことがあり、ほどよくクローズドで、見せつけたいものは堂々と、といういいとこ取りをなんとか形にしたくなった。
それが個人サイトというものに行き着いた。
しかし個人サイトを経験していくとSNSの設計の快適性にやはり意欲を吸い込まれてしまうところがある。
SNSは文章を打って絵を添付してボタンを押すだけで投稿し、同時に他の人に新着を通知できるのに対して、個人サイトではそのボタンを押してからもまた別の通知用やリストアップ用のファイルを編集しなくてはならなかった。これが地味に面倒だ。
そうなってもいわゆる「活動はSNS、倉庫にサイト」という姿勢を取る気にはなれず、SNSを超える快適性を持つ個人サイトを作るにはどうしたらいいんだろう、と考え始めた。
もちろん快適性というのは更新の簡潔性もあるが、「堂々と見せたくない(見せられない)ものをわざとアクセスしづらい場所に置くことができればのびのびと好きを突き詰めた制作活動ができる」というような意味合いの快適性もある。
実はサイトの制作について一般的に提供されたり推奨されたりしている要素には敢えて逆らったり曲解したりしても実は案外なんとかなるもので、むしろ自身の求める空間を作るにはそうするしかないこともあると分かってきたことがあった。でもそれがどのくらい重要かは人それぞれなのでおおよそ誰も語らないだろうし、それでもせっかく言語化できるぐらいに考え込むことができたならこんな片隅にくらい書いたっていいだろうと思って書くことにした。
個人サイトを長年やっている人にはもはや当たり前のようなことも書いてあるし、かといって多少の専門用語も注釈抜きにして入れているので一体誰向けの話なんだという話が大半かもしれないのだが、
ひと通りのハウツーやサービスを探しながらサイトを作ったけれど何か思うようにならない、更新の楽なSNSのほうに戻りがちになってしまう、という時に見てみたらいいやつが書いてあるかもしれないし、何もないかもしれない。
各セクションは独立して書いているので、興味のある項目だけでもどうぞ。
華麗なツーステップ(以内)で「更新」を手懐ける
個人サイトというと作品の保持能力やHTML/CSSの知識の有無やデザインテンプレートの紹介といった「もの」あるいは、SNSにはないひっそり感が心地いいよという「気持ち」がフォーカスされがちだが、それらはスタートを切るための意欲にはなっても実際のところ継続するための意欲にはあまりならないように思う。というか、開設を皮切りに「更新」というものが常にタスクとして降り積もるため、更新が簡潔に行われる仕組みを持っていないとその意欲は更新を経るごとに削られることになってしまう。
SNSでも頻繁なアップロードを行う人のほうが着目される傾向にあるし、残念ながら個人サイトでも活動の基準値になるのは「更新」であるのだが、それが作品以外にもブログであったり訪問者とのコメントのやりとりであったり個人的な祝い事であったりと型にとらわれず幅広く扱えるところが個人サイトの特徴でもある。
都合よく解釈すればどんなことでも「更新」と銘打って活動の一環とすることができるわけなので、作品づくりだけが全てだとか思い込む必要もない。逆に「せっかく作ったがイマイチ」と思っているものは通知しないままこっそり掲載しておいて、こまめに探すような人だけが見れるようにするという手口も可能になる。
個人サイトの世界はSNSと違って更新したものがどこかのページの枠を奪い合って表示されていくといったものは基本的になく、結局のところ訪問者が一定の意欲関心を持っていなければ更新に気づかれることすらないため、更新頻度によってサイトに付与できるリアルタイム性というのはあまり活かされることはないように思う。
それでも「更新」という作業とこうも向き合っているのは、面白いことに自分の意思を率直に反映した更新の方法がとれるようになれれば更新作業の心理的負荷がほぼなくなり、今はむしろ更新という作業も前段階である作品づくりの最終段階として扱えるようになり、メリハリのついた活動とネット上の息抜きというものができるようになっているからだ。
そういうわけで個人サイトではなるべく更新の仕方と通知の出し方を考えておく必要がある。
サイトを始める意欲と同様に、ページを作る際にも入口や注意書きの置き方や作品をどう区切りながら並べていくかなどの「配置」と「コンテンツ」をメイン考えるかもしれないが、更新作業という「訪問者から全く見えることのないプロセス」についても考えておくといわゆる個人的なブームで終わらせることなくサイトを続けられるようになると思う。
しかし量が多ければいいコンテンツとは真逆に、更新作業はなるだけツーステップで済ますことができないと更新作業が面倒くさくなっていく。その場合、その各ステップは「更新」と「通知」に使われる。
ちなみに、何かしら自動化されたものを使っていていくつかの小さい作業が一連のものとして扱える場合、その大きな一連が1ステップとして扱えることになるかもしれないので、いくら手打ち感が愛らしくとも自動化について考えることも重要かと思う。

おおかたの人々はどこが更新されたかをチェックするために全てのページをくまなく開いていくようなことはしないので、上画像のようにどのページを更新したかをサイトのIndexやTopと名付けられがちな最初に訪れることになるページに記載して誘導できるようにする。これは全てと言ってもいいくらい誰もが取っている手法だし、これはあまり逆らうべきではないと思う。
例外的な方法で、全てのコンテンツを1つのページに収めてしまい、訪問者がさっとスクロールするだけで更新を確認できるような形をとりながらもコンテンツのリストアップと表示も兼ねさせるというスタイルは黎明期の個人サイトなどで見ることができるが、画質やデザインを軽量化しなければ全体の表示までに時間がかかるという欠点がある。
それで、この「通知」を記載するのにまず1ページ開くことになってしまう。最低限これだけは必要だということにすれば、残されたもう1ステップで「更新」を完遂しなくてはならない。しかし個人サイトとは基本的に全てが人力で、絵なり文なりのデータのアップロードをしてもページそのものに何かを書き足して表示するよう命令しなければ表示されることは基本的にない。

使っているものがブログエンジンであればこのように「続きを読む(Read more)」より先の文章を表示することなく概要表示のまま自動でリストアップしてくれるので、記事の投稿と更新通知をひとまとめに行えるという利点がある。
もちろんそれぞれが「記事」という形になってしまうが、レイアウト次第ではイラストや写真だけを大きく並べたギャラリーページを作ったり概要やプロフィールを書いたテキストページを共存させることも可能になるので、使いどころさえつかめば「これブログだったの?」となるレベルまでできるんじゃないかと思う。有名なところではTumblrやWordpressなど。
アンカーリンクで作る「部屋」の概念
よくメニューヘッダが常にページのどこかしらに駐留しているウェブサイトがある。どんな込み入ったページからも大分類に戻ることができてページ内探索が非常に楽になるリンク群だ。
クローズドすぎると墓穴を掘る
よくある個人サイトの特性に
- リンクは入口ページのみを推奨
- 創作サイト以外の場所にリンクを貼らないよう要求する(SNSに自サイトのリンクを貼るなも同じ)
- SNSを全て退会する(通販等の重要な操作に伴うアカウントは除外)
というのがある。けど、個人的にはもうこれはやらないほうがいいと思う。なぜならSNSが普及しきってしまって、どうしても探し出してやるんだという人のほとんどがSNSの輪の中から出ることがなくなってしまったから。そういった人たちの意欲は関連作品をたどるとかハッシュタグめぐりをするとかいう行為に完全に置き換えられているし、大抵のSNSにはお気に入り登録とかフォローとかコメントとか、そうした行為の「終着点」がしっかり用意されているので定住もしやすい。
よほどのエゴサ欲がないかぎり気づいてもらえないブクマ登録や、送っても読んでもらってるのか一向に判明しない拍手とかに比べれば、「意思を受け取ってもらえる」と明らかにわかる環境というのは閲覧者として立ち回っていてもとても安心する。
そういうわけで慣れ親しんで全てが保証されているようなSNSをはずれてまで個人サイトを回ろうという人はかなり少なくなった。そして仮にいたとしても必ずしも拍手ボタンを押すとは限らないし、名前付きでコメントを残していくとも限らない。アクセスカウンターは漠然としすぎていて訪問者の個人個人を意識するのが難しいし、そもそも検索のクローラがカウンターを踏んでいて人間ですらなかったということもある。
自分がひたすらにさらけ出していても見ている人がどんな人なのかまるで分からない逆一方的な性質は、およそSNSと同じ感覚で続けようとするとそのアンバランスさに違和感をもつことになる。
それに布教というものをしないことには、アクセスがない原因が「ただ気づいてもらっていないだけ」なのか「内容に不備がある」なのか分かりづらい。少なくとも布教のかぎりを尽くせば前者は回避でき、あとは単に拍手やコメントをするほどの魅力がないか、ボタンやフォームの存在に気づいてもらえてない等のデザインに問題があるか、そもそも個人サイトを警戒する世界になってしまったかのどれかに絞れる。個人サイトは掲載するだけではもう掲載したことにはならない。
実際、自分自身も個人サイトをめぐるときは漠然としたあのイメージを期待しながらまわっていることがある。それは個人個人を見つけてやろうという気持ちよりも、単にあのイメージをもった多様な「作品」を見てまわりたいという気持ちに近い。コンテンツによってはすぐ個人の識別へと移れるサイトはある(大抵は作品が充実していたり日記で込み入ったことまで書いている)けれど、決まったものしか公開しておらず「ひとつの個人サイト」にとどまり人そのものはぼんやりし続けているサイトもある。
もちろん訪問者数の多少というTwitterにおけるフォロワー数、Youtubeにおける登録者や視聴回数に似たものを考慮して集客じみたことを頑張る必要はないのだが、そもそも個人サイトを開設して居住するに至った意欲の正体を考えてみて、少しでも「見せたい」という気持ちが含まれているならSNSのプロフィールにURLを書く程度の布教活動はしたほうがいい。
個人サイト系のサーチに登録するのでもいいし、誰かにリンクを貼ってもらうよう直談判するのもいいし、SNSにURLを垂れ流すのもいい。「知る人ぞ知る」が個人サイトのもつ印象だが、実際のところは「知る人さえいない」が個人サイトの最初の姿だ。
個人サイトはとにかくリンクを禁止したり制限したがる文化があるが、リンクできない文化を土台にするというのは厄介なもので、そういう文化のない海外の閲覧者とかでもないと「管理者でもない人が勝手にサイトを広めるのは失礼」としてシェアを抑圧するのが常識になっている。見てもらうことがモチベーションの一端を担っているにもかかわらず、広めることを互いに禁止し合っているのである。
広めたところで興味を持たなかった人はその後も来ることはないし、興味がある人だけが継続して来てくれるという単純明快な理想像につながるはずなのだが、どういうわけか広めた先でのデメリットばかりを憂慮した文化になってしまっている。もういくらかのアクセスを食らっただけで即刻ダウンするサーバーがある時代でもない。
人がいないことで起こるのは減算的な意欲の低下であり、いわば自然と更新が停滞していったり作業が後回しにされがちになったりという面倒な現象に発展することになる。たくさん布教した結果として攻撃的なコメントや晒しをうけてサイト運営の意欲が低下するのは明確な原因も認識できるしコメント制限をつけたり晒しものを見に行かないといった対処もすぐに見つかるしノイジーマイノリティという言葉にも支えてもらえるが、前者の低下はなかなか気づかないし直接的な対処方法がない。
気づけば更新しないで半年、気づけば一年も放置していたという感じで、かなり手遅れな状態になってからやっと気づく。さらに手遅れな状態になっていることにさえ誰にも気づいてもらえていないし、手遅れを改善したとしても気づいてもらえない。たとえば現実的に遺書や命の痕跡を残さなければならないような状態でもなく、誰に見られることも目的としていない場合、個人サイトに「ものを載せ続ける理由」はあるだろうか?
見づらさや進みづらさ、発見しづらさで訪問者をふるいにかける
個人サイトに対してどのような意気込みで訪問しているかは人それぞれであるが、大抵のベースは趣味的なものであるので、見づらかったり思っていたようなコンテンツがなかったりするごとに訪問者は離れていこうとする。
そこで敢えて見づらい配色やフォントサイズを使用したり隠しリンクをほのめかしたりパスワードつきページを掲げてみたりすることで逆に「意欲が妙に有り余ってる人」だけをサイトに引き込むことができるし、そういう人はおそらく特定のカテゴリに対しても造詣や耐性があったりするものだ。
ただ個人サイトは他者によるシェアがほぼ発生しない(リツイート的なのもなければ閲覧ランキングもない)ため、ある程度は普通にオープンにしていなければならないし、「どこかにあるよ?探してみてね」みたいなのが乱立しているとよほど暇でない限り探すのをやめがちになる。
サムネイルの大きさ
大きいサムネイルはとにかくインパクトがあるが、絵による印象の刷り込み度合いが大きいので詳細を開いたとしてもタイトルや解説の重要性が下がる可能性がある。俯瞰的に作品群を眺めることができないため、そのカテゴリの作品が総合的に何枚あるかも分かりづらい。小さいサムネイルはインパクトこそなくふんわりした印象とともに個数の明示をするにとどまるが、それは過激な表現にほどよい弱体化を施して表示することにもなり手間が省ける。